鯖街道?御食国?福井の食文化と魚にまつわるあれこれ徹底解説!
日本海側に面している福井県は、美味しいお魚やカニが食べられることでも有名。
特に南部の嶺南地域は、日本の歴史や食文化を語る上でも重要な存在なんです。
『鯖街道』や『御食国(みけつくに)』といった言葉を聞いたことがある人もいるのでは?
そこで今回は、嶺南地域の魚や食にまつわる歴史・文化を徹底解説します!
嶺南地域では400種以上の魚が獲れる
嶺南では、400種類以上の魚が獲れると言われています。
その理由として、以下のような地形、海流、漁法などが挙げられています。
- 若狭湾の沖を流れる対馬暖流は越前岬にぶつかり、一部が若狭湾を回流
- 冬にかけて冷たい海流が潜流(海面下を流れる海流)となって、若狭湾に入り込む
- 若狭湾はリアス式海岸で、 山が海岸に迫っている→山の恵みが地表水や地下水によって海に運ばれ、魚介類にとって豊富な餌場となる
- 一本釣り、刺し網、定置網、小型底引き網など、漁法のバラエティに富んでいる
また、若狭湾に面した漁港と漁場の距離が比較的短いことが、新鮮で美味しいお魚が食べられることにつながっています。
漁家民宿の数日本一!
福井県は兼業漁師が多く、特に嶺南地域には漁家民宿が多く、県全体で285軒あるうちの219軒が嶺南地域に集中しています。
これは数としては日本一なんだとか。
漁師さんの生活を垣間見ながら、旬の地魚が堪能できる『漁家民宿』。
例えば若狭にはこんなに素敵な漁家民宿がありますよ!>>漁家民宿って何?『漁師の宿 勇晴』で海の幸を食べ尽くしてきました!
もちろん、民宿だけではなく、新鮮な地魚が食べられる料理店も数多く存在しています。
地魚にまつわる歴史
福井県の嶺南地域には、御食国(みけつくに)や鯖街道(さばかいどう)など、地魚にまつわる歴史が沢山あります。
御食国とは
御食国とは、日本古代から平安時代まで、新鮮な海水産物などの食料を朝廷に献上する役割を担っていた国のことです。
万葉集には御食国として伊勢国、志摩国、淡路国が歌われていますが、 若狭国は平安時代の法律『延喜式』や平城京跡から出土した木簡の記述から御食国の一つであったとことがわかっています。
この『延喜式』では、若狭国は10日毎に「雑魚」、節日(桃の節句や端午の節句など、季節の変わり目などに祝いを行う日)ごとに「雑鮮味物」、年に一度 「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を『御贄(みにえ)』として納めることが定められていました。
鯖街道とは
鯖街道は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の福井県南部=嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称です。
主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートでしたが、 その中でも特に鯖が多かったことから、近年になって鯖街道と呼ばれるようになりました。
鯖街道と一口に言っても、以下のようにさまざまななルートがありました。
- 若狭街道:小浜〜熊川〜朽木村(滋賀県)〜出町柳(京都)
- 根来道(鉢畑越え: 遠敷地区〜針畑峠を越える(若狭からの京への最短路で、一番古い鯖街道といわれる)
- 久里半越え:小浜〜熊川〜今津(滋賀県)〜西近江路
- 小浜と京都の多数の峠〜鞍馬街道
- 西の鯖街道:小浜や高浜の浦々〜名田庄村〜堀越峠など〜京都周山街道
- 栗柄越え:美浜町新庄〜滋賀県マキノ町
これらは、2015年4月24日、文化庁が選定する日本遺産の最初の18件の1つ『海と都をつなぐ若狭の往来 文化遺産群〜御食国若狭と鯖街道〜』にも認定されています。
鯖街道で運ばれていたもの
鯖街道では、鯖以外にもさまざまなものが運ばれていました。
- 若狭の鯖
江戸中期に書かれた『稚狭考』には、「鯖のおほくとれる時は一人一夜に弐百本釣り、二宿一船に三千、もっとも大漁なり」と、若狭湾での鯖の豊漁が記されています。
また、明治期の芸術家・北大路魯山人も、「さばを語らんとする者は、ともかくも若狭春秋のさばの味を知らねば、さばを論じるわけにはいかない。」と言わしめています。 - 京のハレの料理『鯖ずし』
若狭湾で獲れた鯖に一塩して、一晩かけて京都に運ぶとちょうど良い味になったそうです。
葵祭や祇園祭などのハレの日には、塩鯖をしめて作った鯖ずしが祭りのごちそうであり、葵祭では下鴨神社に1匹まるごとの鯖が供えられています。 - 若狭のむし鰈・小鯛
江戸中期に描かれた若狭のむし鰈を「天下の出類、珍味」、小鯛を「その味また鰈に勝る」と称賛しています。 - 若州うなぎ
幕末、うなぎの仲買人川渡甚太夫は『若州もの』として人気があった久々子湖(福井県美浜町と若狭町の境にある湖)のうなぎを、街道筋の宿屋にいけすを作らせて生きたまま京に運び、莫大な利益を上げたそうです。
若狭もん
福井県(若狭)から朝廷に運ばれていた魚の中でも、『若狭もん』は別格。
フグやアマダイ(ぐじ)、かれいなどは、『若狭』の名前をつけて『若狭ふぐ』、『若狭ぐじ』、『若狭がれい』などと呼ばれており、口にできるのは殿上人などの選ばれた人だけでした。
現在でも若狭もんは高級食材として扱われています。
地魚の加工技術に優れている
嶺南の人たちは、京都に新鮮な海産物を届けるためにさまざまな工夫をしてきました。
例えば鯖の腐敗を防ぐために塩でしめてから丸一日かけて京都に運んでおり、着く頃にはちょうど良い塩加減となっていました。
こうしたことも契機となって福井県の水産加工技術は発達し、今日ではへしこや鯖寿司、なれずし、ささ漬など、さまざまな加工品が名産となっています。
福井の鯖加工品の詳細はこちら>>浜焼き鯖に鯖寿司にへしこ…福井のサバグルメ5選
福井・嶺南の食にまつわるエピソード
御食国として古代から都・朝廷の食環境に密接に関わっているだけあり、食にまつわるエピソードも数多く存在します。
呪われなかった塩
『日本書記』に記された逸話には、古墳時代後期に権勢をほしいままにした大臣・平群真鳥が天皇に災いをなそうと天下各地の塩に呪いをかけ、天皇の食料とならないようにしたという話があります。
しかし、角鹿(現在の敦賀)の海の塩だけ呪いをかけ忘れたため、この地域の塩だけが天皇の食料になったとあります。
実際には、平群氏の勢力によって、瀬戸内や東海からヤマトへ入る塩の道が断絶し、ヤマト朝廷が角鹿の海の塩だけに依存する一時期があったと考えられているようです。
そのため、角鹿の海の塩(敦賀湾だけでなく、敦賀で集散される越前・若狭一帯の海域の塩)は、その時期非常に価値が高かったと考えられるとのこと。
古墳時代にさかのぼる若狭湾沿岸の製塩遺跡は実に約70ヶ所にものぼり、土器製塩の先進地区の一つに数えても過言ではないと言われています。
日本最古の『すし』
平城宮や藤原宮で発掘された木簡の中に、若狭の地名と納められた産物などを記した木簡が多数あります。
中には「遠敷郡青里」(現在の高浜町青)から「多比鮓」(鯛すし)が納められたことを示す木簡があり、これは日本最古の『すし』(発酵物)の記録となっています。
現在のすしはご飯に酢を加えて酸味を付ける『早ずし』と言われるものですが、当時のすしは『馴れ(熟れ)鮓』と呼ばれるもので、現在とは製法が異なっていました。
大宝令の注釈書である『古記』には、馴れ鮓のことを「蜀の人、魚を取り鱗を去らず、腸を破りて塩を以て飯酒と合わせ契わす、碑を其の上に重くし、熟せばこれを食う、名づけて鮓肉とす」と書いてあります。
これは、中国の蜀の人は魚の鱗を取らず、臓物を取って塩を付け、酒とご飯を合わせたものを中に詰め、重しをして発酵させて食べたという意味。
現在でも琵琶湖の鮒鮓(ふなずし)など、一部でこの作り方のお寿司がみられますが、古代においても基本的には同じような作り方であったと考えられます。
参考・引用:福井県公式サイト
嶺南地域の食文化などを知ることができる施設もありますよ!>> 日本の食文化が丸わかり!御食国若狭おばま食文化館ってどんなところ?
地魚の聖地。若狭路とは?
福井県と嶺南地域の6市町(敦賀市、美浜町、若狭町、小浜市、おおい町、高浜町)は、各市町が 協力しあい将来にわたって、地域おこしに活用できるブランドとして『地魚の聖地。若狭路』を2014年に定めました。
画像のお魚が『地魚の聖地。若狭路』のキャラクター『わかさ王子』です。
Dearふくいは、福井県(特に嶺南地方)のお魚の素晴らしさを、福井県のみならず全国の皆さんに知ってほしいとの想いから『わかさ王子サポーター』として『地魚の聖地。若狭路』を応援しています!
地魚の聖地。若狭路のお魚Q&Aと、お魚にまつわる豆知識をまとめた記事はカテゴリー『地魚の聖地。若狭路』からご覧ください!
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